悟りも身の丈2011/05/31


先日、古くからの友人と食事をした際に
一体どれだけ多くを悟れば良いのだろう…という問いかけに

そんな答えは、人生を終える時まで解らないもの

何故なら、日々不完全なことに気づき
それらのことを補い続けることが人生…

すなわち、生きている間は、誰しもが不完全なもの…と答えました。

友人は、目から鱗というか…しばらく固まっていましたが・笑。

私自身、悟りなどというものは
生きている限り、そうそうたどり得ぬ答えだと思っています。

悟りなどという答えを、急いて身に着けたと過信しても
それらの多くの場合は、思込みや勘違いがほとんどで
度が過ぎてしまえば、ただのおごりとなりやすいものです。

だからこそ、成長も身の丈ならば、悟りも身の丈ということで
日々初心に返り挑めることの方が、私的には悟りが多いからなのです。

思い込みは…力みやすいもの
勘違いは…向き合える時間を損なうだけ
おごりは…ただの意固地を招くだけのもの。

だからこそ、悟りよりも初心であり続けるコトを選ぶのです。

初心とは、常にゼロで在りつけられるということ…

だからこそ、余分な考えや経験を捨て去りながら、
ただ単純に、今の自分自身だけで目の前のことに専念できるのです。

その状態こそが、ベストと呼べる状態ではないでしょうか…。

そもそも、日々の物事を自分なりに考えて過ごしている人は
そうそう、退化することなどはあり得ません。

成長過程の延長を、悟りと呼ぶのであれば、
日々、必要なモノゴトを淡々とこなしてさえいれば、
意識せずとも、いつかは辿りつくものでしょう…。

得意とする自分や科目ばかりを盾にしていても、
それらもまた、いつかは偏りというアンバランスを招きます。

得意なモノゴトとは、本来意識せずとも出来ることを示しています。

それならば、あえて不得意なコトを意識して挑むことの方が
バランス…という観点からみれば、成長といえることでしょう。

プラスだけが、絶対的なチカラということではなく

プラスとマイナスのふり幅を、広く持ち合わせ
それらのバランスを、コントロールできてこそ実践的なチカラです。

振り回されない、自分を養えれば十分な悟りと言えることでしょう…。

思いも、行動も、言葉も含め、
全てのリキみが拭えた時が、悟りの境地といえることなのです。

ただ単純に、いまの自分にYESと呼べる日々を積み上げれば
いつの日か、間違えようのない悟りを自ずと開くでしょう。

屈託のない、笑顔を増やせる日々を進んで下さい。